2011年6月16日木曜日

自由の代償



家で犬を飼っている。
小さい頃は鎖に繋がないで自由にさせていた。
しかし、大きくなるにつれ、近所の手前もあって、繋ぐようになってしまった。
繋ぐ前、繋いだ後、あきらかに彼の目は変わった。
やんちゃだが奔放な動きは、目も生き生きとさせていた。
しかし、鎖に繋いだ後には、目はどんよりとして、性格も変わった。
自由闊達な動きが制限されてしまったのだから当然の結果ではある。
散歩にはよく行くが、やはり首を絞めるリードが悲しく、逆らうことを許されない。

自由にして育ててやれば、彼にとってどれほどいいことか。
しかし、その代償は大きすぎる。
あちこちでうんちもしっこもする。
ご近所の子どもさんに、なかには犬嫌いの子どもさんもいるので、迷惑をかけることが多々起きる。
他所様の屋敷に入ってなにかをしでかす。
そして、もっとも恐れるのは、彼自身への交通事故などによってふりかかる災難。

わたしたち、人間にも同じようなことがいえるかもしれない。
自由が大きければ大きいほど、それと引き替えに危険は大きく、ときには死も覚悟しないといけないこともある。
山も、自由の代償はこれまでの数多くの偉大な先達者が、教えてくれているが、しかし、それでも自由は命のことを考える余地を与えないほどに、素晴らしい魅力を秘めているし、自由とは生きている証なのかもしれない。

犬も場合によれば、それが許されていいと思った。
その場合、その犬はもっとも幸せな犬になるだろう。
迷惑を掛けない範囲での自由の代償は、知恵と工夫で回避できるものは回避し、あとは神・仏のなすがままだ。


S・A・R-20*5、ST*2、F10*2、H10*2、W30*1、DB*3

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