2011年10月31日月曜日
年々、寂しくなる
また一人、子どもの頃にお世話になった叔父さんが旅立っていった。
父方の兄弟姉妹はすでに他界してしまっているが、母方の兄弟姉妹は11人、一番末の弟さん、享年80歳、母とは年が17歳離れていた。
11人もの兄弟姉妹、さぞ賑やかだったことでしょうが、こんな大家族は今後まずお目に掛かることはないでしょうね。
年々、寂しくなるのは仕方ないとしても、これが人生なんでしょうか、いつかやがては妻と二人きり、そのうちどちらかが一人になってしまって、そして…。
そんなこと考えるなといっても、考えない方がおかしい。
いつのまにか、次々と親しい方が去っていく。
まだこの年齢なのに、先輩も、友人も、後輩までも。
ときに寂しくて耐えられないときも…ある。
2011年10月30日日曜日
峠と乗越
四国には乗越(ノッコシ)という言葉を使う地名がないように思うのですが、中部山岳方面へ行けばかなりあるようです。
峠と同じような地形だが、峠とは意味合いが違って、乗越とはたんに尾根を乗り越えるという意味で使われているようだ。
その点、峠は麓のいくつかの集落を結ぶ大切な峠道を指していて、いわゆる物資などを運ぶ生活道の役割を果たしている。
車社会になった今日、昔に人が歩いて作った峠はほとんどなくなり、いまはわずかに登山者たちが、あるいは山で生活をされている方たちが守っているにすぎない。
乗越と呼ばれるところはまだあるいた経験がないが、峠を歩いていると、その合理的な道に驚かされることが多い。
山を歩くということは、ほんのちょっぴしだが、昔の日本の生活に触れることにもなって、なんとなく楽しいと思うことが多々ある。
S・R-20*5、DB10*5、F20*5
2011年10月29日土曜日
フスベヨリ谷Ⅱ
この谷は一見荒れてはいるのですが、不思議な魅力がある。
多分その魅力とは、自然のままの姿ということもあるようですが、それだけではない何かがある。
詩人ではないのでうまく表現できないのですが、日本の山の原風景とでもいうのでしょうか、そんな趣のある景色でした。
今年は例年の秋と比べて少しかけ離れた天候で、雨が多く、朝夕の冷え込みが少なく、一日の寒暖差が小さかったのでしょうか、紅葉は悪く、すでに落葉しかけている。
それでも、このフスベヨリ谷の木々の紅葉は悪い中にも印象的な色合いを見せてくれました。
ただし、7年経って、崩落後の危険箇所は落ち着いてきてはいるようですが、まだまだ荒くたいルートです。
特に冬場の積雪期は、危険だと思いました。
2011年10月28日金曜日
フスベヨリ谷
2004年にアオザレ南西の沢で大規模な土石流が発生し、それまで非常に美しい景観だったフスベヨリの登山道は一部を残しほとんど崩れてしまい、また沢に掛かっていた橋も一ヶ所を除いてすべて流出。
当時の美しい風景は話に聞いたことはあっても見たことは一度もない。
美しい景色は無残な傷跡になってしまったが、しかし、それでもここは国定公園の一部。
災害も自然のなせるワザ、わたしたちはこれを受け入れ、何十年か何百年かの長いサイクルで見まもっていく必要がある。
大崩壊からもう7年が経った。
今年の台風の影響も多少あったとは思うが、当時の危険なところはすでに落ち着いているようだ。
26日、名頃から登ってオカメ岩へ。
そこからカンカケ谷を下って、八丁ヒュッテで一泊。
翌日にフスベヨリ谷から登り返し、再び三嶺へ。
崩落の傷跡は想像を超える大規模なもの、自然の偉大さに胸が震えるほどの感動を覚えました。
-写真はフスベヨリ上部の崩落ヶ所-
※写真に登山者(つむじかぜさん)の姿が写ってますが小さく見えます。
2011年10月24日月曜日
冬の渡り鳥が…
2011年10月23日日曜日
雨でした…
どんな小さなハイキング的な山であっても、登る人自身が登り終えた後も深く心に残る登山が、ほんとう(の登山)だと思う。、
青春を山に賭けて-植村直己-
予てから計画していた山登り、しかし天気予報に惑わされた~。
朝4時半に起床、準備していざザックを肩に玄関戸をガラリ、およよ、外は雨。
いそいでパソコンでネット天気予報、「曇り時々晴」
おかしい、雲の動きと雨の位置を天気図で確かめると、どうやら、お昼過ぎても晴れ間は出るどころか、雨が降ったり止んだり、そんな感じだったので、急遽山行きは中止。
家でひっくり返って、本を読みながら昼寝をむさぼる、
止めて正解、一時止んでた雨はその後も降ったり止んだり。
お陰さんで、寝過ぎて、脳みそがいよいよ腐った。
S・R-20*5、DB10*5、F20*5
2011年10月22日土曜日
テントウムシも…?
つい先日、長男の口からポロリと何気ない言葉が洩れた。
畑作業をしていて気がついたことなんだそうですが、最近、テントウムシとかミツバチとかをとんと見かけなくなってしまったとか。
ミツバチについてはテレビなどでも取り上げられたりしているので知ってはいたが、そういえばテントウムシもあまり見かけなくなったな~。
ミツバチがいなくなると、イチゴとか果物、果菜類が受粉しなくて、実が成らないそうなんですが、テントウムシがいなくなるとどうなるんだろう?
昔は菜の花とかバラとかにアブラムシって呼んでいた小さな害虫が一杯くっつき、養分を吸い取っていた。
テントウムシはそのアブラムシを捕食していたので、農家としては有り難かったのですが、そのアブラムシもとんと見かけなくなっている。
なにか異変が起きているんだろうか…?
単に気のせいだといいのですが。
明日はお天気が回復気味だ。
近くのお山にちょいと出かけてみよう。
2011年10月21日金曜日
人間は哀れ
東海林さだおさんといえば、ショウジ君やアサッテ君を書いている有名な漫画家、と思ってたらエッセイを書いて本を出している。
そのエッセイ集に「へんな事ばかり考える男 へんなことは考えない女」というのがあるが、これが面白い。
そのなかに人間は哀れであるというのがあるが、これがなんともいえずユニークでウィットに富んでいる。
<前略…そうとうに略、かなりの略>
人間はもともと哀れなのだ。
生きていかなければならないというのが、哀れの根本である。
人間は、何の説明も受けず、何の理由も告げられないまま、この世に生を受けた瞬間から、選択の余地なく、生き延びていく課題を背負わされる。
人間が哀れというより、生物のすべてが哀れなのかもしれない。
キリンもライオンも哀れである。
イカもサバもミミズも哀れである。
アフリカの大草原に腹這いになり、遠くを見ながらたてがみを風になびかせているライオンは哀れである。
何を考えているのだろう。
考えているとしたら哀れである。
何も考えていないのだろうか。
何も考えていないとしたら哀れである。
<中略…ちょっとだけ略>
仄聞(そくぶん)するところによれば、あらゆる生命体は、種を次の世代につないでゆくための単なるヴィークル(乗り物)だというではないか。
ということは、個の事情、個の言い分、個の幸、不幸には意味がないということになる。
ライオン君、意味がないんだよキミ個人には。
そうやって、たてがみを風になびかせているけれど、ときどき血みどろになって獲物をつかまえて食いちぎったりしているけれど、みーんな意味がないんだよ。
一定期間、息をしつづけたあとは、意味なく死んでくれればいい。
きょう一日あったこと、意味がないんだよ。
若いころとてもつらいことがあったこと、意味がないんだよ。
これから先、いろんなことがあるだろうが、意味がないんだよ。
唯一、意味があるのは、ときどき腰をヘコヘコさせることだ。
腰をヘコヘコさせているときのライオンは実に哀れだ。
威厳も尊厳もあったものではない。
だが、腰をヘコヘコさせて、君の種を次代につなぐものを出してくれないと困る。
一生のうちに何回か、これだけはやらないとまずいことになる。
いま地球上のあらゆるところで、動物たちがヘコヘコしているにちがいない。
なんという哀れなことだ。
明日は大雨のようだ。
山行きは中止になった。
J-RS*3、DS100*3
2011年10月20日木曜日
金子みすゞさん
こだまでしょうか
「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。
「ばか」っていうと
「ばか」っていう。
「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。
そうして、あとで
さみしくなって、
「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。
昨日NHKの「歴史秘話ヒストリア」で大正詩人金子みすゞさんの生涯が放送されていた。
27歳の短い生涯、幼い子どもさんを残して、自ら命を絶った。
あまりにも悲しい若い死。
自殺は他人からすれば、なぜと思うが、さまざまな人生には、窮地に陥っての究極の選択だが、その人が自殺を選ばざるを得ない事情もあると思った。
しかし、それにしても、とてつもなく優しい人だ。
こんなに女性らしい女性、いまだかつて出会ったことがない。
それともわたしの目は節穴なんでしょうか?
人生ってなんでしょうね?
他にもたくさんの詩があるが…以下。
「明日」
街で逢った
母さんと子供
ちらと聞いたは
「明日」
街の果(て)は
夕焼け小焼け、
春の近さも
知れる日。
なぜか私も
うれしくなって
思って来たは
「明日」
「こころ」
おかあさまは
おとなで大きいけれど、
おかあさまの
おこころはちいさい。
だって、おかあさまはいいました、
ちいさいわたしでいっぱいだって。
わたしは子どもで
ちいさいけれど、
ちいさいわたしの
こころは大きい。
だって、大きいおかあさまで、
まだいっぱいにならないで、
いろんなことをおもうから。
2011年10月19日水曜日
小さい頃の遊び
わたしたち団塊世代の小さい頃、学校での教室には黒板というものがあって、当番の人は毎日チョークで書かれた黒板に向かって、黒板消し(黒板拭きもしくはラーフル)でチョークの粉が舞い散るのを我慢しながら拭き取っていた。
いまではもちろんそんなものはとっくの昔になくなっているらしい。
子どもたちは鉛筆を肥後の守という小刀か切り出しナイフで削って、短くなればホルダーを着けて長くして使い、芯が折れないようにキャップをして保護していた。
鉛筆は三菱、コーリン、トンボ、ヨット、運動会の時の賞品は鉛筆やノートや下敷きなど。
高学年に進学したり就職したりしたときは万年筆だった。
そういえば、万年筆なんて、もう見たこともないし、使わない。
懐かしいな~、そんな時代があったんだ。
小刀を持って、山へ行って、竹を切って、竹とんぼや竹笛、もく鉄砲なども作っていたな。
竹笛でメジロの鳴き声を真似たり、ウグイスの鳴き声も真似たり、すると不思議と真似した鳴き声の鳥が寄ってきて一緒に鳴いてくれた。
近くの木の枝に、取りもちを着けた枝を置いておくと、鳥が止まって、足がくっついたりして捕れた。
いまじゃ、そんなことをするのは違法だが、当時はそれは違法ではなくそれほどたくさんの野鳥が野に山にいたもんでした。
いつのまにか野鳥も数少なくなったが、する子どもたちもいなくなってしまった。
2011年10月18日火曜日
25kgザック
2011年10月17日月曜日
リュックサック
ちょいと試しに訓練用のリュックサックを作ってみた。
とはいってもあり合わせのもので、ザックの底に小さな分厚い座布団。
そして5kgダンベル2個、1kgダンベル2個、合計12kg。
その上に、2Lペットボトル3本、500mmlペットボトル2本、合計7kg。
ザックがおおよそ1kgなので総重量20kg。
これを古いハイキング用のザックに詰めて担いだところ、背中下部のところに重量が集中して、非常に歩きにくく疲れるといった状態。
止めて、普段使っているデイパックに詰め替えて背負ってみたところ、重量が背中全体に均等に比重がかかるようになり、これなら疲れにくく歩けるなと感じた。
やはりザックの購入時には自分の体型にあったものを選ばないといけないなと思った。
3~4kg程度のパッキングならザックの質はあまり考えなくてもいいかもしれないが、重量が大きくなると、やはりザックの質が大きく左右するようだ。
2011年10月16日日曜日
第12回しまなみサイクリング大会
雨が心配されたが、蓋を開けてみると上々の天気。
挑戦したのは60kmコース、残念ながら100kmコースには及ばず。
余力を残してのゴールでしたのでまだまだ走れそうでしたが、わたしたちにはこの程度が丁度いい距離のようでした。
朝から、少し風があって、向かい風の時は登り坂になるとちょっときつかったですが、雨が降るよりは随分と楽。
橋から見える海の色はエメラルドグリーン、波はきれいに輝き、瀬戸の島々を眺められる最高なロケーション。
ジョギングしたり散歩したりする人もいて、こういう景観でのサイクリングは世界広しといえどちょっと他には見当たらない。
しかし、今年のコースでのあれやこれやの種々時間設定はちょっと厳しすぎた。
わたしたちのスタートは10時丁度、途中の休息所はなく、お昼の弁当を配っているところまで、走ることを余儀なくされた。
距離はスタート地点から46km、足の強い人は2時間弱で12時前に着いたようだが、わたしたちは12:19着。
まだこれはいいほう。
わたしたちより以前に早く着いた方は、自転車の数からして、ざっと4~50人。
このコースを走った人数はおおよそ350人、ざっと300人もの人たちはわたしたちより遅く到着し、やっとのお昼ご飯。
現にわたしたちが食べ終えて、しばらくして出発したが、その時にもまだ次から次へと到着していた。
時刻は1時を過ぎている。
なんにも食べずに2時間も3時間も走るのは相当にきつい。
ドリンクやパンとかバナナなどが口に入れることができれば問題ないのだが、休息所もなく銘々が持参したものを走りもってとなる。
これも鍛えられたサイクリストなら持参するが、一般人が意識的に持参することはあまりないだろう。
タイムを競う競技ではなく、あくまでもサイクリングを楽しむことに目的を置いたイベントなので、これには参加者もびっくりしたというか、参ったのではないだろうか。
来年は遠慮したいなという気持ちになったとしても不思議ではないと思った。
大会を開催することが目的で、しかも主催者ベースの大会になってしまってたのが残念、もう少し参加者に配慮した楽しいサイクリングであって欲しいものだ。
以前は交通事故などのトラブルが起きていないかどうか、あるいは自転車がパンクなどしていないかなど気を配った運営をしていたが、年々、形式的になってきており、開会式も堅苦しく長々と挨拶するのはどこかの議員さんばかり、知名人の来賓とまではいわない、ユニークでざっくばらんな開会式であったほうがいい。
開会式から全参加者がスタートを終えるのに、1時間半近くも掛かっている、これだけでも疲れそうだ。
特に距離25kmのファミリーコースに参加した方は家族連れ・子どもさんたちでしたが、最後尾スタートなので延々と待たされての出発。
会場を分けたり、簡単な開会式や受付の時間をずらしたりなどの工夫があってもよい。
家族連れ・子どもさん連れでの、折角の、しまなみ海道の各大橋を走り渡るという世界に誇れるサイクリング大会なのに。
2011年10月15日土曜日
秋祭り
お天気悪し、なので外で食事&映画鑑賞&買い物。
久しぶりにイタリア料理を食べて、映画は「猿の惑星」そして秋・冬物の衣服と思ってお店屋さんに入ったが気に入ったものがなくて靴下だけを購入。
他には二冊の本、活字が小さくて読むのに一苦労するのにいまだに買ってしまう岩波文庫。
もう一冊は珍しくも歌の本、音痴で歌えないのに買ってしまった。
なんとか歌える唄をいまからでも口ずさめるようになればいいかな~。
汗を流しながら黙々と歩くよりも、鼻歌でも口笛でもなんでもいいから、ときにセンチにときに明るくリズムに乗って歩ければどんなにいいか。
山で歌う唄。
因幡晃「わかってください」
これからさびしい秋です
ときおり手紙を書きます
涙で文字が滲んでいたなら
わかって下さい。
似合わない。
山口洋子「誰もいない海」
今はもう秋
誰もいない海~
場所が違うんでないの。
アンジェラ・アキ「手紙~拝啓十五の君へ~」
拝啓 この手紙読んでいるあなたは どこでなにをしているのだろう
十五の僕には誰にも話せない悩みの種があるのです
………
いい歌だ、でもちょいと違うな~。
アミン「待つわ」
誰を待つんじゃ~
全然違う。
山の歌と言えば
「雪山賛歌」「アルプの歌」なんていうのもあるが、ここは素直に「ピクニック」とか「おお牧場は緑」が明るくて元気があっていい。
里は秋の大祭、花火が上がってた。
近所の方たち、外へ飛び出て、夜空を見上げてましたわ。
今頃、若者たちが気勢を上げていることだろう。
2011年10月14日金曜日
登山装備と食糧
10月9~10日の1泊2日山行きは18kgザックだった。
もう少し重量を減量できないものかと再点検してみた。
理由は簡単で、わずかに二日間の山行でこれほどのもの担ぐとなると、では3泊4日だとどうなるのかということ。
水は水場がある限りは山で確保するとしても、食糧だけは持参していきたいものだ。
一般的に食糧の重量は一日分平均どれくらいになるのかは知らない。
よくは分からないが、ある方の記録を読むと、20日分で30kgとなっていた。
これからすると、1日約1.5kgになる。
1食分500gになるが、お米1合は150gだから、残り350gは副食もしくは行動食ということになるが、因みにサバやさんまや肉類などの缶詰だと1缶大きめサイズ190g、小さめサイズ100g、あと残りの60g×3=180g分は一日の軽い行動食にあてられる。
4日分として綿密に計算しなおすとおおよそ21kgになるが、これにテント装備を加えると23kg~24kg程度は覚悟しないといけないようだ。
もし、これ以上に重量を下げようと思えば、着替えの衣類を下着だけにするとか、もうそれくらいしか考えられない。
冬場でない初夏から初秋の間なら可能だろうか。
2kgほど減るだろう。
しかし、年齢的なことを考えると、あまり無理はできないな、と思う今日この頃です。
2011年10月13日木曜日
小屋とテント
テントと小屋(無人)の違い。
経験が浅いので、たいしたことはわからないが、それでも少しだけは把握できた。
どちらも食糧や水は自前で確保しないといけないし、シュラフなども必要だ。
ただ一つ大きな違いは、テント泊の場合、屋外で直接風雨や雪にさらされるということ。
その点、小屋の場合は守ってくれるということだろうか。
特に豪雪や暴風雨の場合にはおそらく命に関わる重要な役割を果たしてくれる。
小屋にもよるが、お亀ヒュッテのように薪やストーブを常備しているところもあって、そういった点では大変に貴重な設備だ。
今回の山行で西熊山でのテント泊ではシートや銀マットを敷いて、シュラフで寝たが、地面から冷気が伝わり体が冷えた。
そしてテント内側には結露がびっしり付着し、テント内に保管したさまざまなものを濡らしもした。
特にシュラフはシュラフカバー無しでのテント泊は少し辛いなと思ったものです。
また外でも夜露が降り、まるで雨が降ったのかと思うくらいに笹や地面が濡れた。
汗で濡れた衣類などを乾かそうにも乾かせる状態ではない。
白髪避難小屋では濡れたものは小屋内で吊して乾かし、地面からの冷気もなく、まして結露などありえない。
しかも、小屋内の温度と外の温度は普通の状態でも相当な差があり、その点ではテントは過酷だなと思えた。
ただ、小屋の場合はそこはあくまでも人工のものであり、外の空気とは壁が出来てしまい、自然の中に身を置いているとは感じにくい。
テントの場合はやはりその点が大きく異なり、自然の中でいまおれは生きているんだな山のど真ん中で寝てるんだなという感覚を直に感じ取ることができた。
小屋の場合は、同宿者でもいると、特に睡眠時に気を遣って、トイレに行くにもそっと起きないといけないし、ましてやむやみにドアを開け閉めして外へ星空など見に行くのも憚られる。
テントだとジッパーを開けて、首を突き出しておくだけで、寝転びながら、山の空気を吸える。
風を直に受け、樹木の葉や草たちのそよぐ音、ときにはテントの直ぐ傍で夜の動物たちの息づかいを感じることが出来る。
どちらを選ぶか、それはその季節ごとのあるいはそのときどきの山登りのスタイルによって異なってくるように思えた。
2011年10月12日水曜日
軽装備それとも重装備?
三嶺の山頂で、剣山から縦走してきた男性に出合いました。
見ノ越を早朝5時前に出発して、三嶺山頂に着いたのが11時半頃、いまから名頃に降りれば13時過ぎでしょうか。
おおよそ8時間での縦走はかなり速いペースだ。
お先にと言いながら、歩く姿は見るからに軽そうで、見た目にもマラソンかジョギングをされている方だなと思ったが、背負っているリュックザックにふと目をやると、ピクニックに使いそうな小さめのものだった。
通常は剣から三嶺の縦走だと、もしものとき、歩けないことをも念頭に入れて、避難小屋で一泊してもいいような持ち物を持って出かける。
なので、当然荷物は重たくなり、ザックもやや大型のものになりがちだ。
しかし、最初から日帰りで、持ち物も飲料水と食事と他にちょっとしたものだけで縦走するなら、かなり速いペースで歩くことも出来るわけだ。
もしも仮に歩けなくなるようなことになったなら、途中のエスケープルートを使って国道に降りればいいことで、そういう歩き方もあってもいいなと感じた。
思いきり身軽にいって、縦走を果たすか、それとも腰を据えて重い装備で縦走を果たすか、どちらかの二者択一の時代なのかもしれない。
その最先端が若者中心に流行っているトレランのようだ。
どちらかを気の向いた方を選んで、そのときどきで使い分けるのも一つの良い方法かもしれない。
2011年10月11日火曜日
小屋泊山行を終えて
名頃から尾根道を歩いてダケモミの丘へ登り、そこから四ッ小屋谷川へ下って、対岸の尾根に這い上がって白髪避難小屋にて泊。
おおよそ18kgのザックを担いで、道のない尾根を這い上がるのは相当に堪えた。
途中で何度ザックを投げ出し、もう止めようかと思ったか、次は絶対にないぞとも思った。
しかし、歯をくいしばって登ってみて、小屋の前でテントを広げて、焼き肉パーティをしながら飲んだ湯割り焼酎の美味しかったこと。
苦しかったこともどこかに吹っ飛んでしまった。
今回は、ロースなしの牛肉だったが、山で山の好きな者同士の気の置けない会話は、なににも代え難く、これ以上のものは他にないように思えた。
ザックは当初15~6kgの重量を目論んだが、今回もなぜか減量に失敗。
原因は判明した。
もう2~3kg減量できることが分かったのが大きな収穫。
しかし、それにしても、食糧と水を中心に減量したが、その結果、食事は実に味気なく、毎回、ご飯にふりかけを掛けて、インスタント味噌汁をすするという羽目に。
その他には干し魚と乾燥果物を囓りつつ、歩いた。
わずかに二日間だったが、それでも家に帰っての食事の美味しかったこと。
ぬくぬくとお布団で寝られること、あったかいお風呂には入れること、なんと幸せなことか。
しかし、そういう幸せな生活は、ある意味では人間をぬるま湯にどっぷりつけ込んだようなもので、堕落させてもいるなと感じた。
ワイルドさから言えば、小屋泊よりは断然テント泊がいい、まるで自然の中に溶け込んだようで、小屋ではそれを感じることができなかった。
さすがに冬にはそれをする元気はないが、せめてスリーシーズンくらいはこれからもぼちぼちと楽しめればいいな~と…。
-赤まんま-
2011年10月8日土曜日
再びパッキング
明日から山小屋(無人)一泊の山歩き。
前回の不慣れなパッキング(20kg)に懲りて、出来る限り軽量化に努めて、パッキングしてみた。
ところが、収まったものの口いっぱい吐き出しそうな感じのところでギリギリセーフ。
もう一度、ランタンを除けてローソクにしたりで、最低限に必要なものだけを絞り込んでパッキングし直した。
かなり余裕ができ、予備口の部分だけスペースが空いた。
体重計に乗ってみた。
17kg。
これで明日調達する昼弁と、その他の物を入れると、18kgは超えそうだ。
う~ん、前回と比べて水2L分の2kgしか軽量化できていない。
今回は水を1L減らし、レトルト食品も止めて、スポドリも一本減らし、お米も前回6合のところを2合にしたはずなのに、わずかに2kgとはね~、ショックだ。
薄手のセーターを追加したことや、着替えの衣類が嵩張ったせいもあるようだが、う~ん、どうすれば15~6kg程度になるんだろう。
頭の中が???だらけになった。
やはり、装備の質か。
世の中何事もゼニゼニ、ゼニやな~。
辛い。
ウヌヌ!負けてはおれん。
ここはさっぱりっと、割り切って諦めることも必要や。
青い空、白くて高い雲、秋の空だ。
気分爽快にいこう。
2011年10月7日金曜日
毛虫にやられた。
伸び放題の庭木の剪定、というより、ただ単にバサバサ切ったというほうが正解。
闇雲に切った枝が、庭に山のように盛り上がった。
放置しておくわけにはいかない。
本当は燃やしてはいけない、燃えるゴミとして出さないといけないようですが、大型トラック一杯分はありそうなゴミ、どうやって出すのでしょうか?
仕方なく山際の畑地で燃やすことにしました。
軽トラにギュウギュウに盛って詰めて、さらに盛って、全体重をかけて足で踏んづけまわって、それで三回庭と畑を往復、疲れました。
ところが、やれやれと思って、手伝って貰った長男と二人で山の話などをしていたら、なんだか体中が痒い。
長男も痒いのか、シャツを捲って体を手で掻き出した。
長男の捲ったシャツから、ぼてっ!弛んだ腹が飛び出る。
奴もそろそろ中年太りか。
ついこの間まで、可愛い少年だったような気がしていたが、もうそんな歳になる。
みんな歳こいてるな~。
ところで痒みの原因は毛虫でした。
刺されたところがブツブツと赤くなっていた。
来年からはこまめに剪定しなきゃな。
2011年10月6日木曜日
ビニール袋で炊くごはん
当ブログの「山での食事とお米の炊き方」-9月26日の記事
で書いたビニール袋でお米を炊く方法は、緊急災害時にボランティアの方たちとか、野外活動でのボーイスカウトの方たちが実際に行っていることで、ネット検索をすればかなりな数がヒットするほどに人気なようです。
山で実践する前に今日、自宅で炊いてみた。
ビニール袋に米一合(洗米してよし、しなくてもよし)、お米と同分量の水1合(180cc)を入れ、ビニール袋の空気を抜くようにして輪ゴムで口をくくる。
コッヘルに水を入れて沸かし、上記ビニール袋を入れて、30分グツグツと煮る。
出来上がり。(写真)
食べてみた、美味しい。
焦げ付きもなく、芯のあるごはんはできず丁度いい感じに蒸れている。
ビニール袋ごと保存して持ち運びができそうだ。
しかし、一合は結構多い。
写真は夕ご飯に作って、食べた残り…、まだ二食分はありそうだが、山で行動する分にはお腹が空くので、わたしだと一合で二食分になりそうだ。
そこでペットボトルに90ccごとに赤テープを貼って目印をいれた。
これだとお米0.5合ごとに分けておけば、水0.5合(90cc)、量らなくてもすぐにできる。
さて、あとは実際に気圧の低い高い山で炊いてみて、どうなるかがお楽しみです。
2011年10月5日水曜日
カラスノゴマ
ニホンオオカミが絶滅して久しい。
Wikipediaによると、明治38年に奈良県で捕獲されたのが最後らしい。
しかし、その5年後に福井県にて可哀相なことに撲殺されたのが最後だとする説もあるようだ。
なんとも狼とはよほど人間に嫌われていたらしく、見つかり次第駆除されたようで、日本だけでなく世界のあちこちでも同様な目にあっているようだ。
遊牧民が多く住むモンゴルでは人は狼をみつけると必ず殺す。
遮る物がない大平原では、車は追いかけ放題、狼は疲れを知らない鉄の塊にあっけなく追い詰められ、銃でとどめをさされる。
山羊や羊ばかりでなくまれには飼い犬や馬も襲ったとされる狼。
人間にしてみれば、天敵以外の何物でもない。
狼は絶滅し、替わりに天敵がいなくなったイノシシやニホンジカや日本猿が大繁殖する結果となった。
今度はせっかく開拓した農地などではイノシシ・猿・シカによる被害が深刻になり、これを駆除することになる。
なんとも皮肉な結果だが、しかしだからといっていまさら狼よ甦れとはならないし、なって欲しいとは思わない。
そのかわりに、シカの増えたお山では、バンバン、シカが撃ち殺されている。
そして人間は増えに増え、もうすぐ70億になろうとしている。
いまからわずかに50年前はその半分以下の30億だったことを思うと、恐ろしいスピードで増えている。
この先どうなるのかと不安感を抱くが、いい加減年を取ってくると、もうどうでもいいような気にさせられてしまう。
2011年10月4日火曜日
アオベンケイ
2011年10月3日月曜日
讃岐うどん
村上春樹の辺境・近境という本をよんでいると、讃岐・超ディープうどん紀行のなかで、中村うどんの話が載っていた。
中村うどんも昔と比べて、かなり様子が変わってきたが、21年前の様子が書かれている。
おもしろいのでちょっとばかし取り上げてみよう。
店はひどく小さい。うどん屋というよりはむしろ建設現場の資材小屋みたいに見える。
間にあわせたみたいな小さなテーブルがいくつか並んでいるだけである。
………中略
ここの店ではうどん玉を勝手にゆがいて、だし汁なり醤油なりをかけて食べ、勝手に金を置いて出て行くのである。すげえところだなと思ったけれど、郷にいれば郷に従えで、僕らも勝手にうどんを自分でゆがいてだし汁を掛けて食べる。丼を持って外へ出て、石の上に腰掛けてずるずるうどんを食べる。時刻は朝の9時過ぎである。天気もいいし、うどんも美味しい。朝っぱらから石の上に腰掛けてうどんをずるずるすすっていたりすると、だんだん「世の中なんかもうどうなってもかまうもんか」という気持ちになってくるから不思議である。
………中略
うどん屋の建物の裏は畑になっていて、そこには葱が植えてある。お客の証言によると、昔「おっちゃん、葱がないで」と文句を言ったら、「やかましい、裏の畑から勝手に取ってこい」と叱られたそうである。
………後略
しかし、それにしても讃岐うどんって、村上春樹によると、辺境地の食べ物らしい。
一応書物は辺境・近境とタイトルをつけてはいるが、もともとのタイトルは辺境だけだったらしいのだ。
なんとも、ほんとうにワイルドな話だね~。
-ジャケツイバラの実-
2011年10月2日日曜日
稲穂たわわ秋のサイクリング
あちこちで秋のお祭りの最中、讃岐路を走ってきた。
観音寺-豊中-詫間-海岸寺-善通寺そして大日峠越えをして高瀬町-豊中町-観音寺
田圃は稲穂がずっしりと頭を垂れて、今年はどうやら豊作のようです。
農家の家々の前を通ると、いい匂い。
お祭りのこの時期になると咲く花、金木犀、どこの庭先でも満開。
観音寺および豊中町はお祭りの準備中で、太鼓台が広場で組み立てられている。
海岸寺に入ると、津島さんの海岸では潮干狩り。
金蔵寺や善通寺に入ると獅子舞が始まってた。
コンコンチキチキコンチキチ、子どもさんたちがあちこちで舞いを披露。
大日峠をえんやこら越えて、観音寺のとある喫茶店で、好き勝手な話で打ち上げ。
午後から急遽、妻と飯野山に登ってきた。
麓や登山道ではたくさんの方たちに出合う。
子どもさん連れ、若いご夫婦、年配の方たち、今日はいつも以上に賑わっています。
天狗周遊道の岩場でちょっとばかしお昼寝。
麓からは笛太鼓の音が聞こえてきた。
走行距離46.2km、累積標高差351m
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